アクセス数の「1」は今を生きる誰かの「1」
ハーイ、こんにちは!
ゆりぼうです。
3分おきに鼻をかんでます。風邪と花粉症でもはや重症です。オツカレー ズビ…
ところで、ああだのこうだのと騒ぎ立ている間に4月になりましたね。このブログも、たぶん5月か6月で開設1年になりますから(まさかのざっくり)、そこそこに月日は流れたものです。
おかげさまで、いまは毎日50~100アクセスぐらいで推移しています。・・・なんて言ってはみましたが、みなさん、このアクセス数という数字を、普段どのように考えています? 多い少ないとか、そういった話ではありません。
50でも100でも、いやもしくは10000でも、なんか、数字で聞くと「ふーん」って感じですよね。
でも、この「アクセス」は、ただの数ではなく、「人」なんですよね。
つまり、50人だったり、100人だったり、10000人だったりするわけなんですが、その数だけの「生きている人」が、理由はともあれ、自発的にこのブログを見に来てくれているわけです。
それって、すごいことだなぁ。嬉しいことだなぁ。
「ブログ」というものに慣れてくると、毎日のアクセスが発生することにも、良くも悪くも「慣れて」きます。
だから、そんな当たり前の「奇跡」みたいなことを、どうも忘れそうになっているのです。
その数字のひとつひとつ、一人一人に色々な人生があることを。どんな人なんだろう。どんな気持ちで、このブログへ来てくれてるのだろう。
そんなことを、ひらひら舞うさくらを眺めながら、ふと思いました。
さくらの花びらもまた、それに似ています。桜の木には薄紅色の花びらたちが、こぼれんばかりに溢れています。
でも、その1枚1枚は、しっかりした1枚の花びらなのです。薄かったり濃かったり、形も厚さも、みんなちょっとずつ違うけれど。
そして、それらはみんな集まれば立派な桜の花ではありますが、1枚でもまた、立派で美しい、花びらなのです。
虹色ココットへ来てくださる皆さん。
いつもありがとう。
いつもお読みいただきありがとうございます!