「何かを嫌がる自分」を責めなくてもいい理由
ゆりぼうは、約3カ月前まで無職でした。
このブログのタイトルにもなっているのですが、ゆりぼうには前の会社を辞めて、今の会社に来るまで、10カ月の離職期間があります。
その期間、人生で初めてカウンセリングに通ってみた期間がありました。
診療内科には行ってないので、うつ病だったかどうかは、わかりません。
ただ、毎日なにがつらいわけでもないのにただつらくて、苦しくて、気力もなかったです。
そして、「朝、目覚めること」も、「お腹がすいたと感じること」も、そして夜になって「眠いと思うこと」すらめんどくさくて、思考が発生することに耐えられなかったのは、今でもよく覚えています。
そんなとき、自分を激しく責めていました。
「なんで会社辞めて、なにも不自由ないのに、こんなに疲れるのか」と。
なんで何もやってないのに疲れるのか、嫌になるのか、と。
自分を叱って、でもつらくて、ひたすら自己嫌悪でした。
そこからいろいろと復活していくわけなんですが、そこは今回は詳しく触れません。
今回は結論だけ。
わたしが得た結論は、
「何も正当な理由が無くたって、人生嫌になってもいいんだ」
ということでした。
たとえば映画や漫画などは、作品によって賛否両論が大きくわかれるように、
日常で起こる1つの出来事についても、人によって感じ方、受け取り方が違うわけです。
だから、極端な話、
「多くの人が幸せだと思うこと」に幸せを感じられないことだってあるし、
「多くの人は傷つかない出来事」に傷ついてしまうことだって、あるのです。
というか、あっていいのだと、気づいたのです。
漫画が面白いかどうかは「その人にとって」です。
同様に、「何をつらいと感じたか」も、その人にとって、なのです。
けれど、
私たちはついつい、人とくらべたがります。
◯◯と比べて恵まれているはずだから とか、
せっかく◯◯してもらったんだから とか。
そうやって、人と比べて、自分の位置はいま、幸せかそうでないかを、測ってしまうことがあります。
本当は、「自分にとって」でいいはずなのに。
それを忘れて、比較しながら日々を過ごしていると、次第に「自分にとって」がわからなくなってきます。
私はまさにそんな状態でした。
そのうちに、「自分にとって」が完全にわからなくなり、何に対しても興味がなくなり、無気力になりました。
わたしの心は、きっとずっと言ってたはずです。
「この漫画は人気だけど怖いからいや」
「この漫画はみんなが変っていうけど、好き」
…そんなことを、本当は毎回、言ってたのでしょう。
でも、あまりに私が心の声を無視して、「世間的に正しそうな感じ方」を無理やり与え続けたので、なにもかも嫌になったのでしょう。
…そうやって私は、全てが嫌になりました。
何が言いたいかと言えば、
「何かを嫌がる自分」をどうか責めたり、押さえ込んだりしないでください。
社会人は、感情を表に出せないことが多いと思います。
でも、表に出せなくても、「あなただけは」心の中で、それを認めてあげてください。
「他の人はそうなんだよな、でも、私にとってはこれは嫌なことなんだよな。だから、嫌なものは嫌だわ!」って。
その後どうするかは、場合にもよりますが、結果的にやらないといけないことでも「自分だけは自分の意見をちゃんと受け止めた」ということに、とても価値があります。
そして、きちんとそれができていれば、次から似たようなことを回避する意思が、自分の中に芽生えます。
そうやって、ちょっとずつ自分の嫌なこと、と、そうでないことを分類して、できるだけ自分にとっていい道を選べるようになるのだと、私は考えています。
ブログでもツイッターでも、会社を辞めたい人や、人生に疲れてしまった人を大勢みかけます。
そして、最近まで、自分もその一部でした。
そんな方々にとって、なにか少しでもヒントになれば、嬉しいです。
お読みいただきありがとうございました!