「誰かを救いたい」という強い感情の正体
「誰かを救いたい」
「つらい気持ちから解放してあげたい」
そんな気持ちになることは、ありますか。
わたしには、よくありました。
自分のやったことや言ったことで、誰かが救われたら。
つらい気持ちを、ちょっとでも楽にしてあげることが、できるなら。
それはわたしにとって、心から嬉しいことだったし、自分にそれができるんなら、どうにかしてそれをするべきだ、と思っていました。
そして、それが本当にできた時は、とても誇らしい気持ちになる。
「自分にしかできないんじゃないか」とまではいかなくても、「これがわたしのやるべきことなんじゃないか、もっと多くの人を救いたい」ぐらいには思ってました。
そう。
「思ってました」という、過去形です。
いまのわたしは、どちらかというと、思ってません。
いまのわたしと、昔のわたしの違いはなにか。
ひとことで言うなら、
昔のわたしは、自分が救われたかったのです。
必死になって誰かを救いまくってる中、気持ちの根っこの部分では、自分自身が誰よりも「救い」を必要としていました。
そう、「自分がこんなにいろんな人を救っているのだから、きっとわたしのことも、誰かが救ってくれるよね」という想いが、きっとあったのだと思います。
それぐらい「誰かを救うこと」に必死になってた気がする。
それを必死に背負おうと、してた気がする。
いつか、自分も救ってほしくて。
・・・・
わたしは、そのあと、救われました。
わたしを長年縛っていたものから、救われました。
それは、「誰が救ってくれた」というには、難しいものだったけれど。
とにかく、救われて、
でも、そしたら、「救いたい欲求」がなくなりました。
もちろん、いまでも、
「誰かの役に立てたら嬉しい」とか「誰かを笑顔にできたら誇らしい」とは感じます。
でも、「笑顔にすること」と「救うこと」は似ているようで、違います。
当時の私には、きっと「笑顔にすること」では納得できませんでした。
「そうではなくて、笑顔なんて余裕のあるものではなくて、もっとつらい状況の人の、気持ちを楽にしてあげるの・・・」ぐらいに、言いそうです。
完全に、「誰かを救うこと」に執着しています。
きっと、こんな状態では、「自分自身が救いを求めているサイン」だと、今ならわかります。
だからもし、あなたも。
昔のゆりぼうと同じように感じることが、多いなら。
まずはなにより自分の心に、耳を傾けてあげてみてくださいね。
きっと、そこからがスタートです。
お読みいただきありがとうございました。